はじめに
ドミニカンヒル(Diplomat hotel)は第二次世界大戦に関係のある建物なので過激な内容が含まれます。
苦手な人はブラウザバックをして下さい。
これまで様々な記事で、ドミニカンヒルと紹介してきました。ですが建物の名前は当初Colegio del Santissimo Rosarioで、現在はDiplomat hotelです。
建ってる丘の名前がドミニカンヒルです。
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Pentax K-50で撮影した5年前のドミニカンヒル【バギオ】
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ドミニカンヒルの歴史
ドミニカ会の避暑地
1911年、説教者修道会(一般には「ドミニカ会」として知られる)のアメリカ人修道士たちは、スペイン人のメンバー数名と共に、自分たちとその修道会の修道女たちのための避暑用の建物をバギオに建てる計画を立てました。
修道会の一員であるロケ・ルアーニョ神父は、その建物の設計を担当しました。彼は現在のサント・トマス大学の本館を設計した建築家でもあります。
※17ヘクタール の丘の土地がバギオ在住のアメリカ人から取得され、1913年に建設が始まり、ルアーニョ神父自身が監督したと言われています。そして、1915年5月に落成式が行われました。
※東京ドーム3.6個分
税金の免除を利用するために、修道会は1915年6月にColegio del Santissimo Rosarioと言う名の神学校を設立しましたが、入学者が非常に少なかったため、2年後に閉校。建物は元の目的である避暑地として再び使われるようになりました。
この建物が建っている丘は、ドミニカン・ヒル(Dominican Hill)と命名されました。
第二次世界大戦中
日本軍から逃れてきた人々が、この建物の内部に避難しました。
その後、日本軍がこの施設を占拠して司令部とし、帝国陸軍の最後の拠点・駐屯地として使用されました。
この間は拷問・レ○プ・処刑などの戦争犯罪が行われ、犠牲者の多くは神父、修道女、そして避難民だったとされています。
この建物はまた、日本の憲兵隊のキャンプとしても使われ、慰安所にもなり、拉致された女性たちが収容・虐待された場所でもありました。
1945年4月のフィリピン解放時、アメリカ軍によってこの場所は爆撃され、建物の右ウィングの一部が被弾。その際に日本兵たちは自決したとされています。
1945年から1947年の間に建物は修復され、再び同じカトリック修道会によって使用されるようになりました。
さいごに
説明の通り、悲惨な歴史のある建物です。
大声で話したり、はしゃいだり、ふざけたりするのは止めましょう。
調べずに行くと羽目を外し過ぎる観光客もいるので。
気を付けて下さい。
余談:心霊スポットとして有名
凄惨な歴史を持った建物であるため、心霊スポットとしても有名です。
心霊現象、幽霊を信じる人々の間では、ゴースト・マグネット(幽霊を引き寄せる場所)とも呼ばれているみたいです。
ちなみに目撃情報としては、以下のような内容が報告されています。
- 幽霊の日本兵
- 首のない修道女たち
- 聞こえてくる泣き声・うめき声・叫び声
- 敷地内で撮られた写真に写り込んだ霊の姿
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Pentax K-50で撮影した5年前のドミニカンヒル【バギオ】
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